Japan CRO Association Annual Report 2024
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Discussion meeting小川:今回の座談会において最初のテーマとしたいのが、CRO業界・協会の30年の振り返りです。国内におけるCROという存在がどんなふうに変わってきたかという点について、まずは植松会長からお話しいただければと思います。植松:1994年に設立された協会に私自身が関わり始めたのは、2001年からになります。その当時はCROっていうものがあまりよく知られていませんし、信頼性という部分でもけれども、2018年から携わることになりまして、現在に至っています。CROとして働き始めたのは2000年からなので、CROができて黎明期を抜けたぐらいの頃ですかね。多くのメーカーがCROに仕事を出していくという大きな波の中で一緒に成長をしてきたという経験談をお話しできればと思いますので、よろしくお願いします。小川:本日、司会進行役を担当します小川と申します。現在、協会には参与という立場で関わっております。私は皆さんと違って出自が変わっていて、実はこの開発業界に来る前、IT業界でプログラマーとかシステムエンジニアなどを二十数年やっていて、2005年にこのCRO業界に入りました。協会活動は、厳密に言えば2008年からですね。植松会長がまだ副会長だった頃に理事としてご一緒させていただいているということで、協会をつくった業界の第一人者の人たちとぎりぎり関われた最後の年代であるため、昔のことも若干知っているし、今の活動も知っている。そうした立場からいろいろな話ができればいいなというふうに思っていますので、本日はよろしくお願いします。なかなか認められていないような時代でした。「CROなんかは使わない」というようなことを言っていた医療機関もありましたね。また、PV(ファーマコヴィジランス=安全性情報管理)の仕事は、製薬企業が全部抱え込んでCROには全然委託してくれなかったというような時代でもありました。そうした環境の中、協会として自主ガイドラインなどをつくったりするなど、いろいろな活動を通じて信頼性を高めていったというのが、この30年の前半における協会の歩みだったと思いますね。藤枝:1980年代の後半ぐらいから、日本の製薬メーカーが欧米に進出して新薬を開発するようになったのですが、そのとき、現地のCROに業務を委託していたというか、CROに頼っていました。CROというビジネスが、すでに欧米では確立されていて、それがあったからこそ日本の製薬企業はグローバル化できたわけですね。しかし、そうした流れは日本にはなかなか来なかったのですが、ようやく90~93年ぐらいになってCROができ始めた。最初の段階ではまだ国からも認められていなかったのですが、CRO協会ができて国としてもCROというのをはっきりと認知するようになり、GCPにも組み込まれるようになったということですね。日本でCROの活動が始まった頃、治験をCROにお願いしたことがあったのですが、まだ経験豊富な人材も少なくて、なかなかうまく思った通りにやっていただけなくて。そのため、あの頃はメーカーの人間がCROの担当者と常に一緒に医療機関へ行くという状況でした。ところが、CROが経験を積むことによってどんどん成長してきた。その結果、現在ではCROに頼んだ方が速くて、安くて、しかも質良く業務ができるまでになっています。日本の今の新薬の開発、あるいは市販後の対応においても、CROはなくてはならないキープレーヤー的存在にあると思います。安藤:私は2000年からCROで働くようになったのですが、植松会長が当時の話をされましたように、そもそもCROという業種自体が認知されてないというのはありました。ただ、製薬企業側のニーズとして、経営資源の効率化のため外部リソースを活用していかないと、自分たちの開発シーズをより早く市場に出していくことが難しくなってきているということもあって、外部委託の流れが2000年代になって非常に強くなってきたと理解しています。藤枝さんが話されたように、経験のあるCROのスタッフというのは非常に少ないわけなので、最初の頃はメーカー側もあんまり信用してない。5この30年の間にCROはどのように変わっていったのか

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